研究会blog - [第5回研究会] 「趣意書(「市民社会の論じ方」)」

[第5回研究会] 「趣意書(「市民社会の論じ方」)」

カテゴリ : 
研究会
執筆 : 
sato 2010-07-05
「趣意書(「市民社会の論じ方」)」

高橋聡(中央大学ほか非常勤)

 「市民社会の論じ方」。いま、なぜこのテーマなのか。「若手研究者から市民社会論の復権か」と歓迎する向きもあれば、「何をいまさら。市民社会論でもあるまい」といぶかしむ向きもあろう。自らの研究でも市民社会を論じたことのなかったわれわれが、いま突然何ゆえ市民社会論なのか。80年代以降の「市民社会の論じ方」を振り返ることで、趣旨を説明することにしたい。

 大塚金之助、高島善哉、大河内一男、大塚久雄、内田義彦、水田洋、平田清明に代表されるわが国独特の市民社会論は、スコットランド道徳哲学とマルクスを土壌とする日本の経済学史研究において圧倒的な影響力を持った。また彼らは教育者として数多くの人材を育て、入手容易な新書を通じて経済学史の枠を超えて幅広い知識・青年層に影響を及ぼした。しかし80年代にはいると市民社会論は急速にその影響力を失う。ポスト・モダン思想家とその紹介者が青年層の新たな偶像となり、テレビで実況中継された東欧社会主義の無残な瓦解を見せつけられてしまえば、市民社会論が期待した社会主義の再生などもはや望むべくもなかったからである。とはいえ90年以降になると、市民社会という言葉は復活をとげる。もっともその「論じ方」は、アレントやハーバーマスの文脈からのものであり、わが国の市民社会論の研究蓄積からは完全に断絶したところでなされる議論であった。いまや市民、公共性、正義は、ハーバーマス・ロールズ論争、リベラル・リバタリアン・コミュニタリアン論争を経て、政治思想や倫理学研究者が独占する概念となり、経済学史・思想史研究から容易に口を差し挟める言葉ではなくなってしまった。

 2000年代に入ると、市民社会はまた別の「論じ方」から復権したように見える。しかもそれは、研究者間の議論のレベルにとどまらず、国民向けに語られる政治・言論空間での復権であった。ただしその担い手は、意外にも市民社会論が批判するはずの「新自由主義」系の論者であった。たとえば、民主党が自民党と構造改革のスピードを競うとした当時のスローガンは、「市民が主役」であった。「小さな政府と大きな市民社会」を主張するNPO出身の若手政治家、薬害エイズ訴訟の原告であった若手政治家の所属は、「みんなの党」である。あるいは、市民社会論が理想とする自立した主体的個人という人間像について、現在いかなる「論じ方」がなされているか少し考えてみてもよい。自立(=自己責任)論や脱政府依存(=甘え)論からの批判にさらされているのは、失業と貧困にあえぐ人々である。安定した地位にある正社員は企業共同体や労組にしがみつく既得権者として批判され、個人単位の「自由で多様な働き方」への転換を求められている。国家による再分配政策と増税策が「ばらまき」「財務省の策謀」として否定的に論じられる一方で、ボランティア・NPO・社会的企業を通じた市民の自立と自助が称揚される。こうした「論じ方」を見るにつけ、市民社会論者に共通する、反国家・反官僚・反独占・反特権(既得権)・反中央集権の意思、または「自由競争はどこまでもフェアなものでなければならぬ」(高島『アダム・スミス』)という意思は、いまや「新自由主義」系論者の政策課題として具体化されつつあるように見える。はたしてこれは歓迎すべき「市民社会の論じ方」なのであろうか。

 2010年代を迎えてかえりみるに、やはりこのような「市民社会の論じ方」については考えざるを得ない。昨今の「論じ方」のどこにねじれがあるのか、どこで意味の断絶が生じたのか、それともこれもまた一つの正統な「論じ方」なのか、と。とはいえ、市民社会論の熱気がとうに過ぎ去った後に大学に入学した「遅れてきた青年」世代は、そもそも市民社会論を知らない。高島や平田の著作を読んでも相当な距離感を覚え、彼らから直接学んだ者なら自明の基本概念「市民社会」「個体的所有」も、つかみどころのないマジックワードに見えてしまう。だからとりあえず、何はともあれ入門し、教えを請うことにしたい。市民社会論の代表作をテキストに、同時代の思想として格闘した研究者の声に謙虚に耳を傾けることにしたい。ただし、市民社会論が得意とする緻密な文献考証には足を取られることなく、ざっくばらんに問いかけ考える場にしたい。そこでたとえば、

・市民社会論は、市民社会や個体という概念によって何と格闘し何を目指したのか?
・市民社会論では、なぜスミスとマルクスが結びつき、スミスとハイエクは結びつかないのか?
・市民社会論の国家観はどのようなものか?大きな政府/小さな政府、階級的国家、福祉(=再分配)国家、またはこれらいずれでもない市民的国家なるものなのか?
・市民社会論のセンスを生かした経済・社会政策を考えることはできるのか?

を論じてみるのはどうだろうか。こうした議論を通じて、若い世代の経済学史・思想史研究者が、今後いかなる「市民社会の論じ方」をするのか−復権なのか、批判なのか、葬送なのか、無関心なのか−それは各人に課せられる課題となるだろう。一方ベテラン研究者には、比較的年齢の近い同門同士の交流はあっても、下の世代と意見を交わす機会はこれまであまりなかったのではないだろうか。そうだとすれば、市民社会論に重ね合わせてできれば自らの研究を率直に語る場にしてほしい。受容であれ批判であれ、われわれがそこから学ぶものはかけがえのない財産となるはずである。市民社会論を通じて自らの思想を鍛えた研究者が第一線を引きつつある今、このテーマが世代間の架け橋となり、経済学史・思想史研究の今後に有形無形の寄与をなすという期待を込め、幅広い世代からの参加と率直な議論を呼びかけたい。