『ビジネス倫理の論じ方』:各章の内容

各章の内容について

(以下、序章「倫理はなぜ/いかにビジネスの問題となるのか」(佐藤方宣)より抜粋)

各章での論じ方
 ビジネスの倫理とはビジネスの論理に包摂されてしまうものなのか、あるいはそれ固有の場所を主張しうるのか。以下の各章ではこの問いがさまざまな形で変奏されることになる。
 
 「企業」という存在はビジネス活動の主要アクターである。第一章「企業とビジネス」(佐藤)では、「企業の社会的責任」の専門職倫理としての“出自”とその後の変遷(サイクル)という“来歴”を見るなかで、本質論的な企業理解を相対化することの必要性と責任の割り当てをめぐる公共的討議の不可欠性を提示する。また第二章「社会的企業」(高橋)は、世に言う「社会的企業」の特色がある程度までビジネスの論理から説明可能であることを強調すると共に、その固有の意義をどのように理解すべきかをつきつめて考察する。
 
 組織や人々の「競争」、そして組織内での「協力」は、一般にその全体へのメリットという観点から正当化されがちである。第三章「組織と仕事」(中澤)が組織のなかでの働きがいをめぐる近年の言説をたどるなかから、第四章「競争と格差」(太子堂)が格差社会をめぐる現代的な言説をたどるなかから執拗に論じようとするのは、すべての人へのメリットを強調する論法を確認することと同時に、そこにひとりひとりの個人の思いを組み込む回路を探るという倫理的モメントへの配慮である。
 
 消費者の選択や、食という営みそれ自体は、概してビジネスの領域に隣接する“外部”に位置づけられてきた。第五章「消費者主権」(原谷)が指し示そうとするのは個人の自律性や全体への貢献に立脚しようとする消費者主権理解が孕む問題性であり、また第六章「食と安全」(板井)が示そうとするのは食という“私的営為”に見出せる政治性・社会性とそれゆえに問題となる食の倫理である。
 
 また企業の社会的責任は多国籍企業の活動など国境を越える問題においてどのように割り当てられるのか。第七章「企業と国家」(中山)が問いかけるのは、「企業の社会的責任」に担わされてきたものの背後にある企業と国家との“共犯関係”である。
 
 もちろんこうした諸章は、別の関心から編みなおすことも可能だろう。
 
 「企業の社会的責任」をめぐっては、その可能性と適切な位置づけを論じる第一章(佐藤)とそれが歴史的に担わされてきたものの意味を論じる第七章(中山)を対峙させることで、この問題の複雑さを認識することができるだろう。
 
 「自己責任」という近年若年層雇用をめぐる論議のなかでしばしば登場する観念をめぐっては、競争や格差は実は“敗者”のためにあるとする第四章(太子堂)と消費者の“自律”を問う第五章(原谷)から考え直すこともできるだろう。
 
 「働き方」という近年何かと話題になる問題については、社会的企業による私益追求と社会的貢献との入り組んだ関係を考察する第二章(高橋)や、適切な規模のグループで発揮されるリーダーシップと個人の生きがいをめぐる第三章(中澤)での考察をつき合わせることができるだろう。
 
 「グローバル化」という論点については、第六章(板井)が「食」を切り口としてグローバル化を考えようとする姿勢から、第七章(中山)が水俣の経験の重要性を強調しながら国境を越える企業活動の問題を考える態度から、示唆を得ることが出来るだろう。
 
 こうした問題の立て直し/編み直しはさらに可能であるはずだ。願わくば本書が、ビジネスの論理と倫理をめぐる錯綜した問題群を考えようとする読者諸賢による“問いの編み直し”を賦活するものとなることを念じつつ、以下の諸章をゆだねることとしたい。